昭和53年01月27日 朝の御理解



 御理解 第8節
 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

 私は毎朝御理解を頂きます時に教典をどこと言う事を頂くまえに、胸がもうドキドキするが皆さんどうですか、もう穏やかでないです。今日はもうどんな御理解を頂くだろうかと、私はこの位の御教えを頂く姿勢を、出たとこ勝負でなくて出る前にね。もう勝負がついておる感じがしますね。もう本当に胸のトキメキを覚えるような、今日はどういう御理解を頂くだろうか。もうそこで勝負が決まるとおもうです。
 なぜかというと合楽の場合は、皆さんもそれを実感されると思うけれども、これはもう大坪総一郎の話ぢゃないなと。これは天地の親神様が、金光大神を通して、取り次ぎ助けてやってくれという願いが、そのお言葉の中にあらわれて居る、お話しの中に感じられる、という今日は御理解を頂く前に、皆さんのいうなら心を確かめて頂きたい。さあ今日はどんな御理解を頂くぢゃろうか、ともう私はこれを開かして頂く時に、本当に心がトキメクです、毎朝。
 いわゆる阿倍野の先生の信心は日参と教聴、もうそれだけです。朝参りをするという、しかも朝参りは家族中でお参りするもうそれがね。いうなら生活の中に大きな、もう生活の中にはいってしまっている。それが無かったら生活が始められんという頂き方なんです。それと教聴教えを頂く。もう阿倍野の先生が口を開けばそのことを、どのお説教の中にも説いておられます。私は昨日先生の話を頂きながら、家業こそこの道の修行である、家業こそこの道の修行である。
 私はこの家業こそと言う所に、大変もう何か強いものに打たれた様な思いが致します。この方の業は火や水の行ではない家業の行だと頂いておりますけれども。それを頂く者の側としてです家業こそお道の行だと、お道の信心は家業こそ、だからもう家業そのものを疎かにしたらお道の信心はない修行はないと、ここに何か強いもので教えておられる気が致しました。まあ今日はお話を聞いて頂きます前に聞いて頂いて、御理解八節を聞いて頂こうと思います。
 御理解第八節、子供の中にくずの子があればそれがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。銘々段々信心が分かれば分かる程、自分の心の中に広く深く今まで気が付かなかったのに。言うならおかげが受けられない素がいっぱい潜んでいたことが段々分かって来る。いうならば屑の子の自覚がいよいよ強うなってくる訳です。これは精進させて頂けば頂く程、もういよいよ屑の子の自覚が拡大化されて来るわけです。
 今日はそういう意味ではなくてですね、誰が見ても屑の子だと思われるのがありますね、それこそ自分の子の中に、屑の子がおればそれが可愛い。それが増してくるとこういうのです云うならば。世に不具者とこう申します、体が自由に自分の思うように動かん、もう本当に一つ一つ親の手を取らにやでけん。本当に親の思いというものは、そういうふびんな心というものは、本当に自分の命に替えられるものなら代わってやりたいいうのが親の心だと思う。
 昨日テレビで植物人間になってしまっている、二十二、三才の子供さん。それも途中で健康体を頂いていたのだけれども、急に植物人間になったという人を、父親が殺していますね。そして自分もその場で自殺する寸前を助けられて、結局罪からいえば子供殺しの大罪と言う事になりますけど。心情からいうならです。人情からいうなら本当に気の毒なことだ可哀想だと思いますね。とにかくもうほんの息をしているだけですからね。しかも月に沢山な治療費もかかる。例えばこんな子がおったら自分の家が潰れる。この子も一生こんなことで過ごしてはとそれに親がですね。
 この子を殺して自分も死のうと思うたと訳です。テレビでそれを見せて頂いてから、本当に親の心情というものをね感じます。誰が見てもそれは屑の子です。さっき申しました様に家業こそこの道の行であると。阿倍野の先生はおっしゃった、如何に自分自身がお道の教師としての業が天職、神様から授けられた御用としてです。それこそ水も漏らさぬ姿勢を持って、御用に当たっておられてこそあの御比礼になって来た。
 もうそれこそ天職だとしてそれを有り難く頂き抜いておられる。のにも係らずお道の教師は沢山おります。またお道の信奉者は沢山おりますが、果たして本当に家業はこの道というのは、金光教にご縁を頂いとる者は、この道という時にはもう金光教と言う事ですよね。金光教にご縁を頂いとる者がです、自分の頂いておる天職とも頂かなければならない御用をおろそかにしたり、それを修行とも心得ないで。もうこげな仕事は孫子の末までさせるもんづゃないと言う様な、御無礼な考え方ですから。
 そこに自分の仕事に対してでも修行として受けておられるのですね。家業こそ道の修行である、それが私の命であると言う所まで高められた人達なら、絶対お徳を頂くでしょう、おかげを受けるでしょう、またそれがお道の教師であるなら、沢山の人が助かるでしょう疎かにしない。昨日或る偉い先生ばかりの集まりの中で、ある勿論それが目的じゃなかったでしょうけれども。たまたまそんな話が出てはならない人から出ているのです。それがどう言う事かというと、合楽のことであった。
 中に一人だけ大変合楽に帰依しとられる先生が、それが沢山の会議の中でですから、もうその先生も口が開かん程、合楽のことを悪口雑言それをこまかに手紙に書いて、沢山便箋にその顛末を書いて、ここえ寄越しておられます。それこそ事実無根というかもう有ること無いこと、しかも例えていうならば。御本部の御大祭の時に合楽の教会長がね、一番前に座ることはけしからんと言う様な言葉を使って。俺がそこに座ればどうあるかちいいたいごたる感じですよね。
 誰が座るとこか決まっとるとかち、まあいうてもよい様な感じがするです。合楽の教会長だからけしからんというその言い方が如何にその人達が、合楽をいろ眼鏡で見ているいることが分かります。あれはいろ眼鏡というものは。昨日テレビで見た、顔の四角いいつも二枚目をする役者が俳優がおります。それがいろ眼鏡、ああこれは悪人役を今日はしとるばいな思うた。そしたら眼鏡外したら普通の顔ですから。二枚目は二枚目のとしての役をやっているわけですが。
 いろ眼鏡かけただけで人相が変わるですね。勿論なら色眼鏡をかけて見とれば、赤の眼鏡をかけとれば赤に見える。青の眼鏡をかけとれば青に見えるです。私はそれを読ませて頂きよって始めの間は、まあおかしい心が起こって、おかしな感じがしたんです。しかもこれが第一流の先生方ばかりの集まりですからね。教団のしかもそれが結局何時間という長い間、合楽のことに終始している。ちったあ余り言い過ぎてどうか言い過ぎたと思いなさったんでしょう。
 皆の先生方が結局こげなこといいよったら。のんぼり向いて唾はくごたることじゃあるもんのと、そりや誰でん尻を臭いや臭いもんぢゃあるもんのと言った様な、最後にはそんなこというとる。それだけ分かっとるものがどうして、そういう本当な事が分からんのじゃろうかと私は思うのですけど。読ませて頂きながら段々段々悲しうなって来ました。それを読みおる間に道の教師のしかも、第一級の第一線で御用頂いとられる先生方がです。こういう先生方がおる限り、教団は発展せんと私は思いました。
 ですからそのことがね。あの悲しうなってそのことを、神様に本当にお願いやら、ほんとに自分自身としては俺のことそげなこというてと、いう心はみじんもありませんでした。そしたら神様から頂きますことがこの辺では、いとらの葉といいますね。饅頭を包むいとらの葉がめの葉といえば通じますかね。あれは山にこういがいが様な、いがいがに葉一枚一枚がついとる。あの葉を取って来て饅頭を包むんです。いわゆるがめの葉饅頭です。のお知らせを頂きました。
 もうこれは普通でいうなら、てんでかっかして近くに居るなら」べんぷを張り廻しちやろう事にもなりかねない様な事を。見たり聞いたりしながらね。私の心は本当にこげんいわれたけん悲しいのではなくてね。私はこれが天地の親神様のお心じやなかろうかと思うたです。もう本当にお道の教師を拝命して、しかも人間的には学問も出来とるし弁もたつから、こういう大事な御用も承っておる。この先生達がですほんとに屑の子である屑の先生達である事を、本当に屑の先生である事を第三者からご覧になった時に。
 天地の親神様が見た時に感じられるに違いない、屑の子程可愛いという悲しいまでの心が私の心の中に起こって来たと言う事は、これがいうならば神心であらうかと、大坪お前の心にそういう心があるから、饅頭を包んで頂くのはお前だけだと言う事になるわけです。饅頭というのは、万の寿と頂かねばならんでしよう。いうならばおかげのすべてというてもよいでしょうね。ですから皆さん例えばね、いらいらしたり腹の立ったりと言った様なことがあってはならない。
 その本質をね、私共が確かめて参ります時にです。本当にそれを有り難しと受ける。昨日一昨日でしたかね、阿倍野の先生と上滝さんの生き方がよう似とる唯違うところはです。過去何十年間の難儀苦労を通つて来たけれども。今日はこの様なおかげを頂いた、ほんにあの時のこと思うただけでも涙がこぼれると言った様な上滝さんの様な行き方。阿倍野の先生の場合は五十年間の布教を終わって、五十年のお祭りをされた時のお話の中に、その五十年のすべてが一年一年有り難い五十年であった。
 有り難いことばかりの五十年であったといっておられるところに違いがある。いどら饅頭というお徳をいつも受け続けて来てござるわけです。また事実それが本当なんですから。それを私共が色眼鏡をかけているから、難儀に見えたり腹の立ったり、悲しかったりするわけです。私共が色眼鏡をかけてそこんところを、肉眼をおいて心眼をひらけよと仰っておられる。心の眼を持ってするとお礼を申し上げる以外にない。そして後から考えて見ると本当神様、合楽示現活動に参画するという運動が。
 今教団の中に入って広げる働きを願っておりますから。そういう働きがあっておることを思うたら、尚また一層お礼を申し上げねばおられんことになるのです。不思議に良か話はなかなか広がらんけれどもね。それがその悪い話悪評ですね。もうそれこそ合楽の場合悪名高い合楽教会です。悪名が高ければ高い程いうならば津々浦々に広がって行く可能性が強いです。これが全教だけでない日本国中、ではない世界中の悪評がかえれるようになった時が、いよいよ和賀心時代が世界にひろがって行くと私は感じます。
 南米あたりでも布教の種が蒔かれた、一粒万倍のおかげを頂かねばならん。いやかに見えた来た一日に百名もの黒黄白と言った様な人種の人達が集まって。月次祭の時には本当に世界中の人種の代表が集まっとる感があると。いつかの末永先生が手紙に書いとった。ところが先日からあちらから来た手紙の中に、先生あなたが合楽合楽というから、信者が金光教ですか合楽教ですかという人がある。合楽、合楽はあまり言わんがいいですという様な極端な手紙が来ました。
 おかしいでしょう合楽教だからこそ言葉も通じんのに、人種を越えてそういう神様の働きを受けておるじゃないですか。私は合楽教といわんけど合楽理念をもってすれば、合楽理念、合楽理念と言う事が。とにかく海外布教は合楽理念を以てする外はないと彼、末永先生がいうておるのですから。それを聞いた前のビリグイ教会のそこの息子さんが何か本当に、餅に骨のある様な手紙でした。なら末永先生から合楽を取ったら何になりますか、もういよいよ骨抜きになってしまいましょうもんね。
 いよいよ以てですまだ半年にしかならない南米の地でです。合楽のことをいうならばよくは思わない、いわないいうならば段々悪しざまに、恐らくは実際あれだけのこと書くならいいよんなさるでしょう。もうそういう働きがありよることを感じるじゃないですかね。だからそこをです私共は頂き、それを頂き抜いて行くことがです。いうならばがめの葉のおかげを頂いて行くことです。
 そのがめの葉のおかげ頂くからです。いうならば饅頭、かめの葉饅頭饅頭を包んで行く、おかげを包んで行く人間の幸福のすべての条件がこれに包み込まれて行く様な。お徳を頂いて行くと言う事になるのです。だから私共の周辺にいらいらすることやら、腹の立つ様なことやらもうあってはならんのです。ところが事実はある。そこで自分が今色眼鏡をかけている時だな、肉眼を以て見ているんだなと、ここに心眼をひらくと言う事はどう言う事かと、いうなら日頃頂いている教えをひもとかせて頂くとね。
 ハッキリして来る。そしていらいらしておったのが、反対にお礼を申し上げねばならんことが分かって来るのです。家業こそ道の修行だと、例えばお道の先生がどう言う様な事を見ろうが聞こうがです。それは天職を頂いているお道の取次ぎ者として、それが例えばそれが悪口雑言であろうが、道の修行だというふうにこれがお道の信心の修行だと頂けたら。どんなに素晴らしい事になるだろうかね。信者の皆さんの場合だってそうですね。もう本当に普通でいうなら辛抱が出来んと言う事であってもです。
 いろ眼鏡をかけておることを気づかせて貰うて、正しい眼を以て見るとです。日頃頂いている教えが有り難う心の中に頂けて来る。そこにおかげを落とさんで済む失敗をせんで済む、実をいうたら充分判かっている。大体は判っているけれど、こう言う事言いよれば上向いて唾はきよることだと分かっている。分かっているけど言わずにはおれないと言うところ、そこにあなたが屑の子であることを自覚せねばいけません。こうもしたいああもしたい手を上げたい、足を上げたいと思うけど手が上がらん。
 足が上がらん、もう既にあなたは心の不具者であると言う事である。こうしたいああしたいこうすることが、本当だと思っておっても、出来んと言う事は私は不具者であると。そこで本気で自分自身がです不具者の自覚に立てば有り難いのですけど、それを気づかないと第三者から見てもやはり不具者は不具者と言う事になります。唯悲しいまでに神様がどうとも仕様がない、それこそこの子を殺して自分も死のうかと、言う事までなり兼ねないのです。本当の不具者であれば。
 教師信者を問わず、私共がいよいよおかげを頂いて行く。もう家業こそ道の修行である。お仕事そのものだけではありません、家業をして行きよる内には商売なら商売仇と言うのが必ず現れます。もう一事が万事にです。場合には蹴散らしてでも行こうけれども、場合にはそれを拝んでよけて行くこともありましょうけれども。そこを私共が信心になって参りませんとね、お徳になりません。
 泣く泣くでも辛抱して行きよれば段々おかげの世界に入って行けるけれども。お徳の世界には入って行きません。お徳の世界には何と言うても、阿倍野の先生の行き方をです。それこそ五十年間一日たりとも有り難くなかった日はなかった、もう毎日毎日が有り難しの、連続であったと言えれる様な信心を頂くために。いよいよ色眼鏡を取った行き方、言うなら肉眼をおいて心眼を開かせて頂く行き方。
 でないとあの人は信心はしよったけれどもと言うて、信心のない者からでもいわれると言う事は、いうならば丁度脇から体の不自由な人を片輪者とか、不具者とかというといわれとると同じ事じゃないでしようか。信心はしよってばってん、あの人どんがする事は、といわれれば片輪といわれていると同じ事です。自由自在に自分の心を有り難い方え、有り難い方えと頂く稽古をいよいよさせて貰ふて。おかげを頂かねばならぬ。
 それでも中々分かってはおるけど中々出来んと言う事も、実際はありますけど。そういう時にいよいよ屑の子の自覚というものをさして頂いて。お詫びさせて頂くところから、神様のお庇いもまた頂けることができましよう。今日は屑の子の自覚に立つと言う事でなくて、事実屑の子であると言う事、誰が見ても手が動きよんなさらん、足も動きよんなさらん、それを不具者というその本当の不具者になってはならないと言う事でございます。勿論心のですよね。
   どうぞ。